剣道具師の思い出話「山田次朗吉先生」

 私共の剣道具店の形態は、以前にも申しましたように店頭には竹刀や剣道着袴などを並べ、奥の仕事場で作業をしながらお客様が来店したら対応するのが常です。ご贔屓の客様とは剣道具のことは勿論ですが、昔の先生方の思い出話はよく聞かせていただきました。たまたま私の祖父が直心影流を修行していたこともあり、先生方から伺う直心影流の話は興味深く拝聴していました。
 私が木更津に独立開業して間もない頃、同居の母から「山田次朗吉先生は知っているか?」ということを訊かれました。「当然知っている」ような答えをしましたところ「じゃあ、お墓は何処にあるか知ってるか?」との問いに「東京じゃないかなあ?」と言いましたところ「先生のお墓は木更津の下郡(しもごおり)にあることも知らないのか」と言います。ということで早速お墓参りに行くことにしました。昭和51年の秋、稲刈りの季節でちょうど今頃であったと思います。
 山田先生のお墓に向かう途中に、どうして剣道もしない母がお墓を知っていたかを話を聞きながら30分ほどの道のりを車を走らせました。山田先生が亡くなった後、弟子であった祖父が当時女学生の母を連れて度々墓参りをしていたということでした。母の年齢から推測すると昭和6~8年くらいだと思います。祖父が山田先生の下で東京商科大学に職籍を置いていた時期の少し後のことではないかと思います。
 お寺に先生のお墓があると思い込んでいたのですが、周りは田んぼと農家がぽつぽつと点在する中に先生のお墓が建っていました。ただ先生のお墓を見つけるのには結構時間がかかりました。母の記憶から「この辺だ」という処を行ったり来たりして探すも見当たりません。そこに不信に思ったのかお百姓さんが「アンタ等ここでなにしてるんだ」というような声かけをしてきました。母が「この辺に確かお墓があったと思う」と申しますと、「誰の墓か?」と言います。母が「私の父の剣道の先生で山田先生という方のお墓」と言いましたら、それはこんな処ではなく「あすこだよ」と50~60m先を指します。母が「墓を移したんですね」と言いましたら昔からの場所だと言います。母が首を傾げて「川から桶で水を汲んで運んだ距離からして変に思う」と話したところ、墓地はそのままで川の方が移ったと言います。大雨が降ると川が氾濫することが多く、改良工事をして蛇行していた狭い川幅を広く真っすぐにしたという説明を聞いて得心が行ったものです。
 その時の先生の墓地はほとんど手入れがされていないようで雑草が生い茂っていて、母と二人で草むしりをし、お線香を上げました。案内してくれたお百姓さんが「ちょっと待ってください」と言って山田先生の親戚の方を連れて来てくださり、こちらの山田先生との関わりなどを話してから、簡単な先生の亡くなられてからの様子などを聞かせてもらい帰途につきました。
 それ以来、年に一度欠かさずお墓参りをしています。はじめの頃はあまり手入れはされていませんでしたが、この30年ほどはどなたが面倒を看られて居られるか不明ですが、よく管理されています。一橋剣友会の方々も墓前にて奉納の形を打って居られるようです。
 昭和51年当時は先生のご子息の墓石も傍にありましたが今はありません。(確か米国ロサンゼルスにて没) 因みに墓石に彫られていた名前は「鍵吉」でした。山田先生の師「榊原鍵吉」先生から頂いた名前は想像に難くないと思います。