剣道具師の思い出話「竹刀で思うこと」

 剣道の稽古に先ず必要な用具は竹刀ではないかと思います。その竹刀について記したいと思います。
 私が初めて竹刀を手にしたのは約60年前の小学2年の時でした。確か3.6(さぶろく)であったと思います。祖父から剣道を教えてもらうため街のスポーツ店で買って来ました。その当時、街には剣道具専門店が無かったため、一番短いものが3.6であったと思います。中学、高校と剣道部で稽古をしました。中学では3.6でした。当時は3.7という規格はなく、高校で3.8を使いました。高校生になって3.8を握った時の長さの違い(ギャップ)6cmに戸惑いを覚えた記憶があります。
 高校卒業後、道具造りに興味を持ち千葉市の道具屋に奉公することにしました。そこで初めて商品としての竹刀と対峙しました。子供向きの短い竹刀は3.2からでした。専門店ですから廉価物から高段者の使う高級品まで揃っていました。
 当時はすべて竹材は京都の真竹でした。京都と言っても滋賀県の伊吹山のものです。高校生向きまでの竹刀は、多くはこの方面の竹刀を扱っていました。取引先は伊吹山山麓の農家兼業の方で、農閑期に製作されていたようです。
 高段者の先生方が使われるものは、東京と千葉市の竹刀職人さんが製作されたものを扱っていました。思い出しますと、名人と言われた東京在住の「清忠」きよただ、「國義」くによし、千葉稲毛在住の「真柳」しんりゅう です。
 形状は当時「中太」と言って、先もさほど細くなく、胴も張らず、握りは中程度のスタンダードなものでした。関東、東京の竹刀は総じてこのような形状のものでした。その後、九州など関東以外からの大学出身の方が故郷の使い慣れた竹刀を持ち込まれ、先が細い、胴の張った竹刀なども、比較的若い竹刀職人にお願いして似た形状のものを作ってもらったものです。永く竹刀造りの流儀を守ってこられた清忠さんや國義さんにはお願いできなかったものと思います。
 因みに真柳さんの師匠は「小柳」こやなぎ という方です。当時、真柳さんから竹刀造りの作業場で聞かせてもらった話ですが、小柳さんが山岡鉄舟先生の竹刀を作ると、先生の書をひとついただけたそうです。

國義の竹刀について少し。
 当店のお客様で国義の竹刀を持っておられる方がいます。今では國義の竹刀を見られることはないので 是非ということで拝見しました。その竹刀は文豪の三島由紀夫さんが使われたいた竹刀でした。柄に「三島」と書かれていました。
 私が千葉市で剣道具造りの修行中、店の近所の出身で警視庁勤務の人がいました。碑文谷署の道場で三島由紀夫さんとよく稽古をする話を聞いていましたので、なんとなく懐かしいような竹刀との出会いでした。
余談ですが、三島由紀夫さんの文字はちょっと縦長の特徴があります。NHKのテレビ番組で直筆署名を見たのですが、柄に書かれている筆跡はそのままです。

 さて現在の竹刀と言いますと、その多くは外国製です。竹材は台湾のものです。台湾メーカーが中国やインドネシアで生産したものが輸入されています。竹は元々真竹が一番ですが、全く同じものは無く、台湾中部南投縣の材料(桂竹)が比較的似ているということで多く使われています。私見ですが真竹に比べて腰が弱い感じがします。
 今から50年ほど前、台湾出身の経済評論家 邱永漢さんと岐阜市の小島さんが、日本の真竹に似た材質が多く産出する土地の、産業振興と用具不足解消を兼ねて竹刀造りの指導をされたと聞いています。
 太平洋戦争終了後、米国の占領政策によって剣道は暫くの間できなくなりました。用具の廃棄命令があり、当時は二度と剣道はできないものと考えた剣道家も多くいたようです。その後、撓競技を経て復活をしましたが、用具が調達できない時期があり、供給方の剣道具屋も竹刀職人も不足していました。そのような時代に、その調達先を台湾に定めた先見性は素晴らしいと思います。

次回は剣道具について記したいと思います。